昭和51年07月06日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
いわゆる八百万の神々様と言った様な信心、ひと方よりもふた方の神様にお願いをした方がおかげ頂くだろうと、例えばよく見るのですけれども、自動車に乗せて貰うと交通安全のお守り札が幾つも一杯掛けてある人がある。しかも信心頂いとってから、そんなにいくつでもこうやって掛けておる。掛とったらそれだけ効き目があるという風に思っておるのか、どこにその芯があるのか知らんけれどもそんな人がある。
それこそ助けようと思いよったけれども、なになに様が助けらっしゃるじゃろうと言うて、それこそ神様達が尻比べさっしゃらせんじゃろかと思うごと、ズラリ掛けとる人がある。それではやはり今日の御理解なんかには劣る訳ですね。だからそういう意味の事、それは薮神小神の前を通っても、前を通る時に一礼をするような心持ちとしとるから、神様を軽蔑するとかというのではない。敬神の念は持っておるけれども、頼むというたらこの方一心。
例えばなら交通安全の札をいくつもあげとると言う事は、どの人にでんなら交通安全を頼んどると言う事になるでしょう。気が付いてないなら早く改まらにゃいかん。又気が付いとるならそういう信心は早く本当の信心にならせて頂かなければならんと言う事です。だからそう言う事を始めには、まぁ教えておられると思うんですけれども、段々読ませて頂いておりますと、草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられるという、この一心を出すとすぐおかげが受けられるということ。
今日私は御神前で、蚊取り線香が黒くなってから火が付いてないのを頂いた。御心眼に。まぁ蚊取り線香というのは、あのうここでは馬鹿になるとか馬鹿と阿呆でという、まぁ一般でもあのうちょっと頭が足りないような人を、ありゃ蚊取り線香じゃからと左巻きだとこう言う訳ですよ。だからただその馬鹿になっときゃ良か、というのではこりゃもう本当に馬鹿です。それにその一心の火が灯っとらなければならないという事です。
私は金光様の御信心はもう限りがないわけ、一生が修行じゃと仰る様に、いつも絶えずあのう修行の心がたっとかなければあのういけんと思う、生きている上にはもう必ずです。いろんなまぁ難儀とは思わんけれどもやはり修行あるのが当然です。もう平穏無事なぁにもない、そう言う様な事があろうはずがない。まぁあったにしてもならあのう本当に今はもう別に、あれこれと特別取り立てて神様にお願いする事もないと、と言う様な程しにおかげを受けておるならばも少し願いを大きく持つが良い。
信心の真を本気で現させて頂こうと、言った様な信心にならせてもらわにゃいけん。いよいよ神様に信じられる私共に、ならせて頂く精進をさして貰おうという事になれば、修行はいつも生き生きとしておる。という様な私はあのうおかげを頂かねばいかん。昨日朝の食事をさせて頂いとります時に、新聞を見せて頂いて私達もまぁところどころ自分に必要な、神様がここだけは見とけよと言われるところだけしか見らんのですから、もう五分十分もかかる事もない位です、こうやって見るだけですから。
その新聞を見せて頂きよったら、クールでホットと頂いた。高橋さんと一緒でしたから、クールとホットちゃなんか難しいこっちゃろうばってんか「クールゃちゃどげなこつの。」ち聞いたら「それは冷たいという事です。」「はぁやっぱそんならこりゃ私の事じゃろ」と、自分で言った事でしたけれども、そのクールと言う事は冷たいと言った様な、ホットというのは温かいという意味。私共の心の中にね、やはあのうこれは一様に育って行く様な、お繰り合わせを頂きませんと片寄ります。
言うならば温かいと言う様な人は、非常に人情が濃いというか、情が深いというか、だからそれこそ情に棹させば流される結果になってしまう。だからやはりそこには冷たい、私は自分で本当にあのうもう実に冷淡な時があるんです。以前はそんな事はなかった。信心が段々分って来れば来る程、実に冷淡な時があるです。例えてまぁ願いなら願いでもです、あれも願いたいこれも願いたという、まぁその人が言うたり思うたりしておる事がよう分かるのですけれども、私は知らんふりしとるです。
私が一口ちょっと言うてやったらハッとその、助かる様な思いで掛かって来るだろうと思うのですけれども、私は言わん。そういう時にはだからどうでしょうかね、皆さんほんと親先生は冷たい人だと言う風に思う事が、ありませんですかね。(笑)大体そのまぁふうたらぬくい方ですから、温い方は大体身に付けとる感じがするんです昔から。いわゆるふうたらぬくいとです。いやホットなんです。だからそれが決して神心ではないという事。天地の親神様の心を心としてゆく信心であってみればです。
神様はもう実に冷たいもう冷酷なまでに感ずる時がある。そんにな風にまでして例えばいじめなさらんでんてな時がある。かと思うともうそれこそ何というでしょうかね、もうたぎる様なお心で現れて下さる事もある。だから私共にもいわゆるその両面がなからなければならない。昨日ある方がある願いをちょっとこう温かい心というでしょうか、まぁ甘い顔を見せると、もう本当にそれこそ追えばビビンチョコに乗るごたる事を言うて来る。それで私はそれに対していうならば返事をしなかった。
そういう時に私の心の中には大変冷たい心が動くのです。御心眼に『門司』と言う事を頂いた。もじですね門の司ると書いて門司、あるいはもんじという訳ですね、門司という事を頂いた。その人がおかげを受けなければならない、一番初めに神様に誓うた事はです、それこそまぁどんな苦労でもいとわないと言う様な事をお願いして、お取次ぎを頂いてお願いした。どんな修行もいといませんと。そして暫くしてからする事は、もう苦労どころじゃない、もう出来るだけ楽をしたい為の願いである。
bだから本当におかげを司るものはいうなら初心、一番初めに神様に誓うたあの厳しいまでのです。私はふと言う事が門という事は入り口だと、その心その心を持ち続ける事によって、神様が願わんでも頼まんでも、楽をさせにゃおかんという働きが始まった時には頂きなさい。ほんの今今じゃなかったと、それこそ涙ながらに今どういう修行もいとわんという様な事を、言うとってからもうこんなお願いをする様な事ではね、先が思いやられる。折角の開ける道も開けない。
その時返事をしてやればさぞ良かったかも知れんけれども、私は返事をしなかった。そして中々スーッと入って行く人じゃないから。何かこれもそうですね。一つ一つこのうあのう小言なら小言注意なら注意をするでもですね、カツンとその当たって跳ね返ってくる様な事ありますからそういう時には言うちゃならない、けれども相手は返事を求めておっても、例えばそれがカツンと来る様な事ではおかげを落としてはなりませんから、その事がすうっと入って行くまぁ機会を願わせて頂きながら頂く事だけはそう頂いた。
言うならば私は一心を貫くと言う事はそう言う事だと思うんですよ。願い始めにこうと願いを立てた、一カ月か二カ月の間にもう心が揺らいでおる。これは一心じゃないですんw。いうならば蚊取り線香に火が付いとらん様なものです。おかげは神様が下さるもの、だからそれは苦しかろうそれはちと窮屈かろうと、神様が思われたら神様が下さる。時期をやはり待たなければいけない、一心が立っとらんともうすぐへこたれてしもうてから、すぐにでも楽になろうと言う様な心が起こる。
昨日は壮年会でしたが、もう壮年会始まって初めて沢山の人が集まった。前の日のあれでちっとは効いとった訳です。第一総代さんどんが全然来なかったけど総代さん方が皆来た。それに菊栄会が全然出て来んとが菊栄会もやっぱ出て来とった。松栄会の方達も何人か来とった。もう本当に今度の壮年信徒大会は、もういろんな意味で大変おかげを頂いた。もう日田の向こうの何とかというところから、わざわざ感動がさめない内に奥さんを連れて、お礼に出て来られた方があった。
伊万里から二組お礼に出て来た。それはもう帰ったらある事が大変におかげを頂いとったからお礼、そして昨日の感動の内にです、もう本当に自分が大きくなる以外にない。自分が太る以外にはないと真から思うて帰って、もう自分の胸にははばからない様な事がもうそれこそもう物の見事に解決した、それでまぁ昨日お礼に見えた。確かにこの神様は、真に有り難いと思う心にすぐにみかげの始めと仰るのがほんとそうですね。
昨日そのう日田のあちらはの方ですがあすこ何とかというたな、いう所から一の宮さんという方が、はぁ大山と言う所ですか、そこからあのう参加しておられました。それがその息子さんの縁談の事で、もうとにかく合楽にお前も一緒に参って、そしてお前がお願いをし、お伺いをすると心もサッパリするからというので。そのう連れてその参って来られました。そしたらあのう頂きます事が至るという字を頂くんですよね、一を書いてカタカナのムを書いて下が土という字になってましょ。何処どこに至るという至る。
だからそのまぁ息子さんがもう三十にもなられて、アメリカに行っておられたり、それからいろいろまぁ勉強しておられたりで、そのうまぁ婚期を逸したと言う訳ですそのご両親としては。それでねそのもうその事が大変心配になられておられる模様でしたが、あのう一番一番最高のおかげを頂く為には、一つ無になる事です。一番に無という。無という事は時分があのうあげな遠かとこからじゃいかん近所がよか、そして頭も良うなからなきゃいけん、器量もようなからにゃいけん(笑)。
という様なね親としてはいろんな願いがあるわけです。そういうものも捨ててしもうて、神様にお任せするというこれが我情をとった姿だから無です。だからこれが一番最高のおかげを受けられる、そして土です、どろ土の様な信心と言う事は、それこそ馬鹿とあほうでと言う事ですね、黙って受けるというしかも受けると言う、歯を食いしばって受けるのではなくて。
それを自分の心が豊にこえてくる様な、言うならば有り難く受けられる様な、受け方をすると言う事になれば、必ずおかげはそこに至るというのです。これなんかはやはり一心を立てなければね中々出来ませんけれども、その奥様の方が偉いそれを分かられたんです。はぁもうこげなこげな風に思えば、ほんに私達が心配をせんでもよかですたい、そうたい。 というごたる風でもうここで大変まぁ安心安堵して帰られました。
そして「文雄先生そのう来年東京から帰って来る、それに間に合おうか 」「その間に合うとか、間に合わんとかそのこともいっちょ、間に合おうが間に合わんめいでん良かという様な気にならにゃん無ということにはならんじゃろ。」「あぁそうですか」ちいうごたる風でまぁ帰られましたが、初めてまぁいうならば生きた御理解を頂いて安心して帰られました。だからこれが安心して帰られただけではこれが一心にならん。
昨日を堺に昨日からいよいよ自分がその事に限っては、もうあちらから自分の好きな女子を連れてこうが、又は遠かとこであろうが、親の心にちと添わんと思うともです、それを頂くという一心を立てなければならない。私はここの、もう私は金光様の御信心に、もう一本に決めとるというてもです、あのうそういう一心が立たなければ、いわゆるすぐにおかげが受けられると言う事にはなってこないというのです。
すぐにおかげが頂かれるということは、そのう願ったお願い事がもう此処で成就するという意味じゃないです。なら昨日のあちらの一の宮さんち言いよったか、達夫婦がです、もうその御理解を頂いたら、その場で「あぁほんなごとこの事だけは、もう神様にお願いしていこう。」ということになって、安心が出来たということは、もうすぐにおかげを受けられた訳です。同時にもう一つ私はある方のお願いをしよったら頂いた事がね、そこ家が改造がありよる。そしてお神様を一間半位のところにお祀りしてある。
それがざぁっとお祀りしてある。広かとは広かばってん、して上にこうあのう紫の紋のづうっとこう何ちゅうですかねあのう幕を張りましょう。あれがあのう何々大売り出しの昔は旗を立てましたよね、何とか大売り出しという、あの旗を利用してから掛けてあって真ん中を絞ってあるとを、そして右側には半間位じゃあるけど、それこそ金ピカのお仏壇がお祀りしてあるとです。もう此処は改式までしとってから、そのう仏壇なんかはあるはずはない家なんですけれども。
私が頂いたのはそれを頂いたからですがどういう事だろうかとこう思うた。ところがね、例えば商売とかいろんなお願い事の対照になる神様ではある、御利益はあらたかだといわれる、けれども本当いうたら宗教としては、仏教の方が上だと思うとると言う訳なんです。私はこれを頂いてから多くの金光教の信者がもう教師、信者を問わずそういう間違った考え方をしておるというか。
なら金光教の信心の素晴らしさとか偉大さとか、深さとか広さと言う事に触れていないと言う事です。例えば昨日あたりの朝の御理解なあんかを頂きよったら、もうとにかく金光様の信心の深さ広さに恐れ入ってしまいますよね。清濁合い呑みまぁ太っ腹の人の事をそう言う風に言うけれども、いうなら金光様の御信心は清もなからなければ濁もない、清いもなからなければ濁りもない、と言う程しの素晴らしい事ですから、この一言いうたってね。もう大変な宗教だなと思うんです金光教は。
なるほどまぁだ金光教が始まって百年そこそこですから、仏教あたりとか、キリスト教あたりとか何千年の歴史を持った宗教とは違う。まぁいろんなものが整うておるという意味なら、まぁだ足元にもおよばんですよ金光教は、けれども本当にこの宗教のいわゆる値打ちという事になったら、金光教の右に出る宗教はないです。教えなんかでもたったこの位の薄っぺらな金光様の教典しかない。
他の宗教あたりに比較したら、もう実にざっとした事だと。いうならば合楽の三十年間私が説いとるのをそれにあわせたら、もう聖書にも比敵するし、教典にも比敵するです。私はこういう考え方がです、一心でない証拠です。おかげを頂く時だけは金光様、いや確かに御利益はある、だからまぁ金光様としとるけれどもです、もう本当の事は仏教の方が宗教としては上じゃろうとか、キリスト教はまぁだ上をいっとるとかと言う風な、観念が心の中にあるというこたぁもうこれは一心じゃないです。
金光様の事はただ商売が繁盛する、商売繁盛の神様位にしか思うとらん、大売り出しのあれどん掛かっとる。そして一間半の場はとっちゃるばってん、ざぁっとしたお祀りがしてある。そして右の方に置いとるということは上ち言う事でしょうもんね。上の方にはそれこそ金ピカのお仏壇が置いてあるとです。だからこういう考え方もこれはいかにも、私は金光様の信心をして改式までしとるというても、実は一心ではないということが分りましょうが。
もうこの方一心というたらそこには何様もなかにゃ神様もない、そしてまた一心というからには、なら大工なら大工に頼むにもです、やっぱり一番安うして一番上手な人にという所に、いわば研究してその棟梁なら棟梁に頼むようなもんです。いうなら金光様が一番と思うて頼まなければほんなこっちゃないです。迷いがあるです心に。こりゃもう本当に金光教全体にね、言えれる事なんです。現にそういう先生が沢山ありますよ、そりゃもう仏教やらキリスト教やらに比較したらまぁだ足元にも及ばんとこう思うとるです。
信者の数とかね設備とかと言った様な事ならそうかも知れません。けれども本当の宗教の言うならば値打ちというものは、金光教の右に出るものはないと信じれるところまで、お道の信心を頂かなければです、いわば神に一心と言う様な事にはなってこない。草木でも芯と言うたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる程しの、と言うのは、本当に金光様一心金光様一本というだけではなくて、もう改式をした言うだけではなくてです。
金光教の信心がもうどんな宗教と比較しても遜色がない処じゃない、こんなにも優れた宗教だと言う事を確信する所から一心が生まれるです。今日は私はこのそれこそ八百万の神々様と言った様な拝めば拝むしこあるだろうと、交通安全のいうなら祈念のお礼でもいくつでん自動車の中に祀っとると言う様な考え方が、お道の信者の中にも沢山あると言う事です。私は先日ある人の車に乗せて貰うたら、もうそそれもそりゃ素晴らしい信心をする人だと私は思っとったんです。
そしたらも右宮地嶽さんも掛かってござる、箱崎さんも掛かってござる、水天宮さんも掛かってござれば、高良さんも掛ってござる、そして金光様のあれがないですもん。そればってん私は言いやしませんでいたけど、そしたらこう上に上げる所にちらっとめっかったけん、あぁやっぱお祀りしちゃるばいのと思ったんですけれども、言うならばそのうあれを下げる札あのう札を、御神米を入れるそのお祀りすらも買うとらん。そしてもうこう、それこそ粟島さんのごと下げとる自動車の中に。そればってん淋しいですね。
合楽でこれだけ熱心に信心しよって人が、こげなん物ば下げとると思うたら。ですから私がそげん思うだけでんおかげ頂かんですよ、ありゃこの方一心と言うたらもう形の上だけでも、この方一心にしなければ駄目です。そしてなら根本的にです、今日はまぁ色々聞いて貰ったですね、至ると言う事やら、又はそのう神様をこうお祀りしてあるけれども、心の中にはです、金光教よりかもっと素晴らしい宗教があるだろうとか、あると思うたりする様な考え方は、ただ合楽に参りゃおかげを頂くけん。
ただ金光様に参っとるというだけの事ではね、本当の一心は立たんです。だからいうならばすぐにおかげが受けられるという、本当のおかげが受けられんです。そりゃもう何様参りよったっちゃ拝みよったっちゃです、お取り次ぎを頂いておかげを頂くという事実はありますたい、けど本当に一心を出すとすぐにおかげが受けられると言う様な本当のおかげはです、私共の信心頂いておる金光様の信心というものを、もう少し確かめて、本気で頂き直さなきゃならないという事が分かりますね。
どうぞ。